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2007年12月

AAJA NACHLE(その3)

torrentで高画質なAAJA NACHLEが手に入ったので全編をちゃんと見た。英語字幕も付いている。日本では絶対に公開されない作品なのに公開直後に家で見ることができる。デジタル革命とはこういうことだ。本当は劇場で、あるいは正規DVDを購入して見たいのだがそれができないので仕方がない。今度インドに行ったらちゃんとDVDを買うということで許してほしい。

ところで、映画である。ネットで見かける評価は脚本が悪いというのが多かったが、インド映画はそういうものである。確かに、素人から見てももっとこうすれば盛り上がるのに、という面は多々あったがインド映画は理屈で見るものではない。記憶に残るものを目指すのでストーリーの破綻や脚本の弱さはそれほど問題ではない。「これでインディア」というサイトでは「最近のボリウッド映画は情熱が感じられない。この映画もそうだ」と手厳しいが、確かにそういう面はあった。例えば、傑作の誉れ高いLagaanも、Aaja Nachleと似たストーリー展開であったが遥かに熱いものを感じた。アーミル・カーンが熱い男というのが画面を通じて伝わってきたものだ。具体的には、不可触民差別への問題提起、そして自然な暗示による神の存在ということをテーマにしていたことが作品に深みを与えていた。Aaja Nachleはどうかというと、そもそもマードゥリが立ち上がる動機からしてよくわからない。多くの人が心血を注いで頑張る理由も弱い。音楽やマードゥリで場面は一応盛り上がるが、終わってみれば何も残らない。要するにテーマがないのだ。「これでインディア」が「何かが足りない」と指摘しているのはこういうことだと思う。

しかし、この映画の本当のテーマを考えればそれもいた仕方ない。この映画のテーマはマードゥリ復活祭なのだ。だからメッセージは邪魔なのだ。そういう背景を考えなければなぜこんな映画になったのか理解できないだろう。マードゥリのファンとしては決して悪い映画ではない。2時間20分の映画だが退屈することもない。さすがにマードゥリも歳を取ったと思わざるを得ないが、歳相応の魅力もあるのでマードゥリを見ているだけで幸せになれる映画である。マードゥリ復帰第一作としてはしっかり作られたと言えるのではないだろうか。最近ボリウッドで流行のアクション映画よりは遥かに見る価値があるボリウッド映画だというのが結論である

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Hum Aapke Hain Koun

ストーリーというストーリーもなく、メッセージもあるのかないのかわからない。起承転結もなく、どんでん返しもない。脚本に無駄を省いた努力も見られないし、冗長だといわれればとてつもなく冗長だ。しかし、すべてのシーン、カット、フレームが光を放ち、詩情をたたえる。登場人物からはオーラが発せられ、どの瞬間も決して退屈することはない。映画とはシナリオではなく、映像そのものなのだということが黙示される。

そういう感覚を覚えたのはタルコフスキーの映画であった。特に、惑星ソラリス。異様に長い作品だがストーリーはほぼない。しかし全く退屈することなく、映像に、台詞に引き込まれてしまう。コンテキストを無視してもいい。どの瞬間も魅惑的で、詩が溢れていた。タルコフスキーの作品はそういう、著名な絵画が放つような魅力に満ちている。まるでレンブラントやフェルメールの絵を見ているような波動がスクリーンから出ているように感じる。

その感覚を久しぶりに味わったのがHum Aapke Hain Kounである。タルコフスキーのような暗さや深さとは対照的な明るい映画なのだが、なぜか共通するものを感じる。この映画もストーリーらしきものはほとんどない。一応あるが、割とどうでもいい。この映画も長大だが、ここのシーンを見ているだけでなぜか癒される。非常に不思議な魔力を持った映画だ。

こういう奇跡的な作品は天から落ちてきてそして消える。タルコフスキーはジェリー・ガルシアはそれを捕らえて長期間に渡って多くの作品を残すことができたが、ほとんどの作家は一度作れても二度と再現することができない。この映画の監督もそうだった。マードゥリという女優に恵まれたことも幸運だったが、この微妙な感覚もこの一作だけで、それ以降はどうしても取り戻すことができなかった

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商売とビジネス

私はビジネスという言葉が大嫌いだ。皮肉を込めて使うことはあるが、積極的な局面では商売、あるいは事業という言い方をする。意味としては商売もビジネスも同じである。しかし、ビジネスという言葉は何か、人の幸せを踏みにじりながら金を生み出す響きがある。資本主義の最も醜悪な臭いがする。人類が失ってきた原因を感じさせる響きがある。

商売という言葉はどうか。何か家業的な、素朴な響きがある。資本主義以前の物々交換、人の営みに必要な生業という連想に繋がる意味を持っている。ビジネスという語感との決定的な違いは持続可能なニュアンスを感じることだ。ビジネスというのは企業を売りさばいて換金してしまうドライな方法論が信条だが、商売は人情が基本だ。根幹に愛情があるような気がする。

ビジネスというのが英語であり、ロンドンやアメリカの価値観を象徴するものである。そういうマネー至上主義に賛同するかどうかがビジネスという言葉を愛用するかどうかの分岐点になる。その言葉を使うかどうかによって、その人の価値観を判断できるような気がする

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AAJA NACHLE(その2)

遂にマードゥリ復活第一作、AAJA NACHLEが公開されたようだ。本編を劇場で撮影したらしいビデオと公開直前にインドのテレビに出演したマードゥリのビデオをtorrentで落として見たが、心配を吹き飛ばすほどにマードゥリは相変わらず美しい。40歳になったはずなのだが、衰えるどころかますます美しい。私の中では、現時点のマードゥリであっても古今東西、史上最高の美人である。というか、本当に神の化身かもしれない。

映画自体の評判はそれほど高くないようだ。しかし、そんなの関係ない。この映画はマードゥリへのリスペクトを示す、復活祭のようなものだからだ。とにかく嬉しい。これからはどんどん映画に出てほしい。恐らく人格的にも素晴らしいものを持っているのだろう。共演者が語る尊敬の言葉、そしてマードゥリの声や一挙一動がマードゥリを輝かせる。

マードゥリが本物のプロだなあと思うのは、全く出し惜しみをしないところにある。先月のテレビ番組でもスタジオで踊りだしてしまう有様で(普通はこれほどの名声を確立した大御所大女優が、ゲスト出演した番組で多くのダンサーを前にして踊るなんて考えられない)、そういう乗りの軽いところが大好きだ。30歳を超えてもへそを出して踊るし、本物の大蛇と絡むことも厭わない。キスシーンだってやってしまうし、太腿を露にするようなインド人的には相当恥ずかしいはずの衣装も、胸をダクダク突き出す踊りもやってしまう。ところが何をやってもいやらしくならない、常に高貴で健康的な絵になってしまうのがマードゥリマジックである。色気がないということではなく、品位があるというか、王女のような気高さというか、要するに生活臭が全くなく、宝石を見ているような感じなのだ。アイシュワリアもそういう感じを目指しているようだが、彼女の場合は花の香りが匂い立つ感じにはならずなぜか無機質になってしまう。アイシュワリアは、イシュケミーナやカジュラレのようなチョイ悪でコケティッシュな役(ボンドガールにぴったりだ)こそが最高だと思っているのは私だけではないはずだ。アイシュワリアにはMehbooba Mehboobaのヘレンを目指してほしい。

持って生まれたものが違うのか、幼少時からのカタックの訓練がそういう優雅さを生むのかは分からないが、こういう気品を感じさせる女優はマードゥリ以外にはRekha(レーカー)くらいしか思いつかない。そしてマードゥリがレーカーを超えている理由は、演技も踊りも出し惜しみをしないで何でも挑戦してきたことにあると思う。そういう人生に対する姿勢が人間の限界を打ち破り、神の領域の作品を生み出してきたのだと思う

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