スポーツ

金メダルはいつから食べ物になったのか?

オリンピックでも、パラリンピックでも、メダルを得た勝者はカメラの前でメダルに噛み付くポーズを取らされる。

恐らく本人はそれを望んでいない、だって大事な大事なメダルに傷が付くではないか。しかし、マスコミは執拗に噛む事を要求する(していると思う)。

始めて見た時は面白いと思った。喜びのいい絵だと思った。しかしかれこれ10年以上見ていると、面白いよりも、ああまた嫌な事をやらされている、メダルが傷つく、選手もかわいそう、そんな気分になる。だからあの行為はあまりやって欲しくない。

そもそも、なぜ噛む行為がもてはやされたのだろう。意外性だろうか。食べ物に見立てているのだろうか。誰が始めたのか、そしてなぜ世界的に勝利のポーズとして広まったのか、「カメラを向ければVサイン」と同様、研究の価値がありそうだ

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朝青龍

さっさと解雇すればいいのに、と思う。病気なら病院に行くべきだ。それを拒否するというのは病気ではないと告白しているようなものだ。だいたい横綱になるような人物が処分を受けたくらいで精神病になるわけがない。肉親が死んだり、戦場で死にかけたわけでもあるまいし。本人にどうしたいのか意思確認をする。治療したいなら病院、謹慎する気がないのならモンゴル帰国。意思表示ができないなら廃人である。既に横綱ではない。

モンゴルの人も、朝青龍も大きな勘違いをしている節がある。大相撲というのはやくざや武将の抗争ではない。強いものが君臨する(ように見えるが)世界ではない。大相撲は単なるキャラクタービジネスなのだ。ウルトラマンのようなものだ。その勧善懲悪的なストーリーを楽しむ商品なのだ。プロレスと違って、勝負がガチなので、強いものを決める競技だと勘違いしてしまいがちだが、むしろディズニーランドに近い。第68代ミッキーマウスがずる休みをしたり、弱いものいじめをしたらすぐに解雇だ。それでは商品として成立しないのだ。

こうなってしまった以上、解雇しか道はないと思うが、協会から言い渡したらモンゴル国民の反感を買う。親方は部屋の大黒柱を失いたくない、本人は謝るのはいやだが横綱の地位を失いたくない。だから硬直状態が続く。まるで、立てこもり事件だ。この事態を動かせるのは本人だけだ。もし本人がこのままの状態を続ければ、謹慎明けのとき、出社しなければ解雇の理由になる。モンゴルに帰れば解雇の理由になる。出てきて謝れば残留する。周囲はそれを待つしかない。それまで、周囲はいろいろ動いたり、騒いだりするだろうがそういう報道は何の意味も持たない。見る価値もない。本人がどう動くか、それだけがこの問題の焦点になった。

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朝青龍

服役したら、うつ病になった。うつ病を治すためには豪邸に戻ってうまいものを毎日食うしかない。という理由で、釈放されるだろうか。懲役が免除されるだろうか。

聞いたことがない。しかし、朝青龍がモンゴルに帰るというのはそういうことだ。それは、結果的に謹慎をしなかったということであり、謹慎を条件に3場所目での復帰を約束している以上、論理的に復帰ができないということになる。

協会としては引退までは想定していなかっただろうが、横綱が2ヶ月の謹慎(謹慎といっても普通の日常生活となんら変わりない、稽古して食って寝る毎日だ)すらできないというなら、横審的にも横綱で据え置くことはあり得ない。体力的な力も失われるだろう。つまり、モンゴル帰国=廃業、は間違いない。本人のためには帰国、という単純なものではないのだ。本人だって廃業はしたくないだろう。落としどころとしては、家族を呼び寄せて家庭内謹慎、しかないと思うが、どうなることか

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ハンケチの王子

会社を辞めて以来、サンデー毎日なのでワールドカップサッカーも楽しんだ。今回の高校野球も、久しぶりに関東に引っ越してきたこともあり、東京、神奈川勢を応援でもするかという気になっていた。

私は高校野球ファンではない。ファンでなくても気になった、清原&桑田のPL、荒木大輔、水野がいた池田、ドカベン香川、敬遠の松井、そういうスター選手がいたときはまあ見ていた。それらははるか昔なので高校野球を意識したこと自体10年以上ぶりであることは間違いない。今回、序盤から見る気になったのは私が神奈川に引っ越してきて、東京への郷愁が高まったことと見る時間があったことが大きいのだが、帝京と早稲田を意識して、序盤で斎藤の顔を見たときになんと品のいい、繊細そうなやつなんだと思ったことが大きい。まだ早稲田実業がベスト16にも上がっていない頃から今年の甲子園は見なければいけないと思った。そのときはハンカチとか王子とかは全然知らなかったのだが、結果的に歴史的な大会だったことになり、世の中に対する私の感性はそんなにずれていなのだなと安心することとなった。

巨人の星の時代ならば、苫小牧の田中のような根性溢れる男に人気が出たかもしれないが、今回は斎藤一色だ。それを星飛馬と花形に例えるのは間違いだろう。斎藤は花形のように嫌味ではない。どちらかといえば素朴だ。そんな斎藤を中心とした今回の大盛り上がり、なぜ起こったのか

またまた時代を遡って恐縮だが、高校野球の歴史に国立フィーバーというのがあった。都立の進学校の、スカウトされたわけでもない勉強ができる高校生が甲子園に出た事件である。今回の斎藤フィーバーは乗りとしてはこれにもっとも近い。ひ弱な東京人が屈強な野球の王者、駒大苫小牧に挑み、勝った、そういうイメージだ。苫小牧が不祥事を連続して起こして何となくブラックなイメージを作っていたこともあるが、ホワイトでクリーンな斎藤早稲田がドンキホーテのように立ち向かう、そんな姿が心をつかんだのではなかっただろうか。これが帝京ならまた話が違う。早稲田だからよかった。今回まで知らなかったのだが、早稲田は5年前まで東東京に属する早稲田にあったのだが西東京である国分寺に移転したらしい。つまり、早稲田ファンは東西の東京全員をカバーしてしまうわけである。マスコミも人口も日本最大で二つのエリアをカバーするとなればまるで日本が盛り上がるように盛り上がるのも無理はない。そして早稲田ブランド。早稲田と言えば古き良き日本の象徴だ。東大は親近感がないし、慶応は個人主義的なスマートさが鼻につく、早稲田はなんか昔の日本のような素朴な集団主義、いい人っぽくて愛着がわく。早稲田に対して劣等感はないが、そういう帰属意識や誇りに対していつも羨ましく思っていた。その感覚は恐らく多くの日本人が持っていて、あの早稲田ががんばっているのなら応援しようと言う気にもなるだろう。

そして最後に斎藤と田中が決着をつける奇縁。話としてできすぎている。土着的な田中が敗北し、品のある田中が勝利する、いかにも現代的な結末だったが実は二人とも「現代的」からはかけ離れているところがポイントである。まったく金のにおいのしない世界で純粋に努力をしている、お客様を喜ばせるという目的すらない。修行僧のように道を究めようとしているだけの世界だ。今回、空前の人気を呼んだのは、そういう、21世紀の日本人が忘れていた宗教的とも言える求道的な世界、日本人の美意識の根幹をなす価値観を対照的な二人の共通項として思い出させてくれた、そういうところにあったのではないかと思う。

蛇足になるが、早稲田が使った酸素吸入装置。これはこれから市場が拡大するだろう。商品は思わぬところからブレイクするものだ。苫小牧も購入するだろうし、街にもエアードックのような店が溢れそうだ。この点、その恩恵にあずかれなかった田中はかわいそうな気もする。

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ワールドカップ

ミクシやRSSについて研究しているのだが、ミクシの恐ろしさがだんだんわかってきた。確かに、上場するだけのポテンシャルを持っている。アメリカで最初にSNSを考えた人が恐らく描いていなかった形で進化していると思う。一つ欠点を挙げるとすればメールがホットメールのようにシームレスになっていないところか。これを改善し、RSSの仕組みを入れれば最強のポータルになるかもしれない。

ところで、健忘症になったのかもしれないが、この前のワールドカップでどこが優勝したのか記憶があいまいだ。思い出すのはジダンの頭突きとロナウジーニョの笑顔だ。たぶんイタリアが優勝したのだろうが全く印象に残っていない。イタリアの何がいけなかったのかよくわからないが、マーケティング的には大失敗だ。何十年経っても、この大会で一番思い出されるのはジダンだろう。人の世というのは全く想定外なことで支配されている。意図的に動かせると思ったら大間違いだ。事業の成功も失敗もこういうことに左右される。要はそういうチャンスを逃さない眼と、瞬時に掴み取る判断力なのだろう

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テニスとサッカー

昨晩TVを見ていたらワールドカップサッカーの裏でフレンチオープンテニスのダブルス決勝をやっていた。その二つを見ながらあることに思い当たった。テニスとサッカーは同じスポーツでも事業としてみた場合全く違う。テニス選手はスポンサーの広告収入を除けば、試合に勝って賞金を稼がなければ収入はない。一方サッカー選手は、点を取らなくても試合に負けてもその年の年俸は(査定で若干上下するにしても)契約で保障されている。しかもそのお金は大会主催者が払う賞金ではない。だからテニス選手はいくら力が抜きん出ても年俸10億円とかいうことにはならない。これはチームスポーツと個人競技の違いから来る事業モデルの違いなのだ。チームというのは事業体によって運営されるが、個人競技の場合は大会主催者というのが事業体であり競技者は事業体の中には含まれない。市場規模も全く違う。ゴルフやテニスは大きなスタジアムでやるわけではないので観客も少ない。テレビ視聴率も放映回数も少ない。ファンの人口が違うのだ。なぜか、それはチームという概念がある意味普遍的で永続的だからだ。地域やライフスタイルを代表しているブランドであり企業理念だからだ。人はそこに共感し思い入れをする。一方個人競技の場合はそういう意識に根ざした、多くの仲間と声を合わせて応援するような、熱狂が生まれにくい。国という理念を背負うオリンピックだけは例外だが。
結局、企業の存在価値もそうなのだが、ブランド/理念というものが大きな提供価値を生み出すのだ。同じ機能を果たすバッグもブランドによってその満足感が大きく変わるように、同じ能力の選手も所属するチームにより輝きは全く異なる。これからの企業はとにかくそういう価値をどれだけ生み出せるかによって命運が決まると思う。青少年期に無邪気に好きなスポーツを選ぶ子供たちはもちろんそんなことまで考えていないのだが。

ここまで書いて、いいアイデアを思いついた。漫画のタイガーマスクは孤児院の子供たちのために戦っていた。だから視聴者はその理念に共感して熱狂した。これと同じように個人競技の選手も何かのチームに所属するのだ。孤児院の子供たちを支援するチームとか何か。そのチームの一員として戦えばファンも増え、応援にも熱が入る。つまり個人競技のチームスポーツ化だ。事業に成功して余裕資金が出来たらやってみよう

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トリノの思い出

オリンピックの安藤美姫を見て、なんという大変な場にいるのだろう、なんと苦しい世界を選んでしまったんだろうと可愛そうになった。純真な心でフィギュアが好きだった女の子がいつのまにか日本の期待を一身に背負って、だめとわかっているのに、もう逃げ出したいのに4回転に臨む。けなげというのはこういうことを言うのだろう。何の見返りもなく義務を背負わされた。転んでも頑張って続けた。うまく行かなくても笑顔で傷ついた心を見せなかった。見ていて感動した。彼女が盾になっていたから荒川はノープレッシャーで伸び伸びと滑れた。勝つつもりなどなかった。だから結果的に勝った。あの金メダルは安藤からプレゼントされたようなものだ。私の心の金メダルはもちろん安藤に贈りたいと考えている。

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スポーツが提供する価値

野村克也という監督がいる。選手としてもヤクルトの監督としても一時代を築き、野球界に君臨した男である。だが、「君臨した」過去形の男になってしまっている。阪神に迎えられた頃から急速に威光が衰え、つまらない男、長島が面白い男の対極、の代名詞のようになってしまった。私はその分岐点はあのオールスターにあったと見ている。そう、ピッチャー、イチローに対して代打ピッチャーを送ったあの瞬間である。面白くない、面白いアイデアに対して極めて陰湿でつまらない対応をしてくれた。「打者に対して失礼だ」と野村は言う。ならば、なぜ失礼か、なぜバットで見せてやらなかったのか。野球が確率のスポーツである以上打ち取られる可能性は結構高い、しかしピッチャーが不調な場合、何人でも連続でヒットを打つことができる、それもプロの世界である。そして野球の醍醐味はまさに確率との勝負にある。確率を加味した上で勝負の結果を潔く、実力の結果であったと脱帽する、それがオリンピックと同じく擬似戦争としての野球の面白さの原点である。そのリスクを負った上でなぜ勝負をしなかったか、それは野球の面白さを否定する行為であった、と後々の野球ファンの脳裏に刻み込まれることとなる。確率を排除してしまえば単なる論理の世界、そこから逃避したいがゆえに野球場に来ている、つまらないビジネスの世界と同じなのだ。野村はそれをやってしまった。なぜイチローを滅多打ちすることで失礼を証明しようとしなかったのか、単なる自分を正当化するための逃げではないか。その打席を見ている時間は、イチローが大打者に向けて投げる時間と比べて何の意味もない空虚な時間だった。そんな時間を野村は平気で作り出した。そこから野村の男としての評価は一気に0に向かったと言うのは今や間違いのない事実のように思われる。

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