5年ほど前に友達が自殺した。躁鬱病だったらしい。彼は東大でも優秀で、特に勉強や研究での集中力は素晴らしかった。運動神経も抜群でテニスがうまく、トマトという東大で一番のテニスサークルで活躍していた。リクルートに就職したが子会社に出向させられ、SEのような仕事になった頃から会社を休むようになりそして辞めてしまった。その後、セールスマンになるとかいろいろやってみたがどれも合わなかったようで、結局、好きなことなら続けられるだろうという発想でスポーツライターになるべく、大量のヨーロッパの文学を買い込み勉強を始めた。しかし文才というのは書きたいことがあって初めて生まれるもので、技術を磨いたり他人の文章を研究して身につくものでもない。彼が書いた文章を死後に見たことがあるが、ひどいものだった。書きたいことがないのに無理やり文を連ねているだけだった。本人も自分の才能のなさに絶望したのだろう、早朝に自室で首をつったということだ。
当時は私もショックを受け、なぜ自殺しかなかったのか、なぜあれだけの能力を持ったものがそんなことになるのか整理ができなかった。しかし、私も会社を辞めて、サラリーマンとは何だったのか冷静に振り返ることが出来るようになって何となく状況がわかってきた。
そもそも、躁鬱病というのは、自己愛から始まる。自己愛というのは自分が素晴らしい存在であることに執着する心である。誰でも持っているし、それは決して悪いことではない。社会生活を営むことで生存する人間という動物に備わった基本的な本能であり、これがなければ人間ではなくなってしまう。人に尊敬されたい、人から感謝されたい、人に影響を与え人を幸せにする力を持ちたい、社会から必要とされる存在になりたい、自分がいたことで社会を幸せにしたい、そういう欲求だ。簡単に言えば、自分が社会にとって価値ある存在であることを確認したいということだ。鬱になるというのは、自分に価値がない、自分がいなくても誰も困らないと思ったときに落胆することで発症する。躁というのは何かのきっかけで自分って素敵、自分はすごいと思ったときにその気持ちが増幅して発症する。幸せいっぱいになる、いや、なったと錯覚する。そうして自分が取るに足らない存在だという現実から逃避しようとする、その現実を忘れようとする心の状態だ。つまり、躁鬱のどちらが真実かといえば欝なのだ。そしてそれにだんだん気がついて、その時間が長くなってくるともう生きている意味がなくなる。自分がいなくても誰も困らないし、自分にはそもそも価値はない。そして自分自身が毎日不幸なら死んでしまったほうが幸せだ、そういうロジックで死を選ぶ。
実は私も30代中盤は結構そういう気分になった。そのときは単純に自分の能力が足らないのが原因だ、自分に魅力がないのが理由だと、原因を自分に起因させて逃げ場のない苦しい状態に陥っていた。しかしそれは誤りだった。原因は個人にあるのではない。社会システムにあるのだ。
社会は、会社は、安定した生産体制を構築する知恵として、常にバックアップを考える。例えば一人の社員が会社を辞めても事業運営に支障が出ないように、常に代替社員を用意する。社員を交換可能な部品として規格化する。会社員でなくても技能職であれば事情は同じだ。そういう人間の規格化と交換可能というしくみは社会の基本的なシステムであり、学校教育もそのためにある。新入社員は自分がいつか素晴らしい存在になれるという希望があるから鬱になることはない。しかし30代になり、自分が代替可能な部品に過ぎないことがわかってくると心が病んでくる。それは本人が悪いのではく、効率化を第一に発展してきた社会のしくみの副作用である。社会がこの病を生み出しているのだ。ここから抜け出す方法はいくつかある。まずは結婚だ。結婚して家庭を持ち、子供が出来ると自分の存在理由ができる。自分がいないと困る人ができる。いつも自分の価値を確認することが出来る、だから会社では部品でもよくなる。会社が(かつて)扶養手当を出し結婚を奨励した理由はこういうところにある。しかし昨今、社会状況の変化により会社は結婚を奨励しなくなり、大量の独身者が生まれている。彼らはどうすればいいのか。一つは思い切って会社を辞めてしまうことだ。しかし、私の自殺した友達のように転職をしようと思ってはいけない。今となっては彼に転職ではなく起業すればいいんだとアドバイスできたのだが、当時は私自身起業するなどということは全く思いつかなかった。仕事というのは雇われることだと思い込まされていた。つまり、創造的な仕事をすればいいのだ。企業の歯車ではなくクリエイターになればいいのだ。クリエイターという仕事は、代替可能ではない。ミュージシャンや作家はもちろんだが、企業の中でも経営企画やマーケティングではクリエイティブな力が求められる。そしてその能力が最も求められるのが創業者なのだ。音楽を作るのも会社を作るのもそんなに変わりはない。自分の能力に応じて職種を選べばいい。価値を生み出して社会に定着させる。そのしくみにより人は将来にわたって幸せになる。それはCDかも知れないしブランドかもしれない。そうやって自分が生み出した価値を社会に遺す事が出来ればもう自分に価値がないなどと落ち込むことはない。創業というのは誰でも成功するわけではないのでこれは決定的な解ではないかもしれない。しかしサラリーマンでい続けるくらいなら挑戦したほうがいい。それにより命を失う確率より、欝で自殺をする確率の方が高いはずだ。
たぶん産業革命以前の社会では、人間は社会の歯車などではなく一人一人が個性を発揮して仕事をして鬱になるものなどいなかったのだと思う。ベルトコンベアーによる量産という考え方が発明された頃からおかしくなった。この社会にいることで誰でも鬱になりうる状況になった。そして、都市化による村社会の喪失により人が自己実現できる場は家庭しかなくなってしまった。独身者に家庭に変わる場を提供することができないだろうか、かつては村社会そういう機能を持ち、独身でも地域のお兄ちゃんとして活躍する場はいくらもあった。そんな場を事業として作り出すことができたら素晴らしいのではないか、そんなことを考えている。
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