心と体

低炭水化物

すべてそうだとは言わないがこの数年、20歳代の女性と街を歩いていたりして感じるのは、怒りの温度差だ。例えばセルフのレストランでおばちゃんが後ろからぶつかってきたりしたら簡単に激怒する。悪態をつくことすらある。私からすれば、悪気があったわけではないので怒ることはあり得ない。そういうことがよくある。その女性だけかと思っていたがどうもそうではない。不思議な現象だ。

豊かに育てられたから無礼なものは許せないという間違った教育の成果ということもあるのだろうが、ひょっとして食い物が悪いのではないだろうかとも思う。昨今、女性の間では低炭水化物というのが信仰のようになっている。否定する人は余りいないが、人類が歴史的に主食にしてきた栄養源をDNAは同じなのに突然絶っていいわけがない。それを食ってきたから生き残っているのであって、それを食わない種族がいないのはそういう種族は絶滅したからだ。つまり、食わなければ絶滅することは歴史が証明しているのだ(食糧事情の違いももちろんあるが)。別の言い方をすると、ずっと主食が炭水化物だったから、身体は炭水化物を食べたときに最高の調子になるように最適化されている。怒りっぽいのはカルシウム不足というのが定説だが、炭水化物不足も何かに影響しているのではないか、例えば妙に頭が悪いとか、精神病とか。それで精神の安定感を欠いて怒りっぽくなるとか。

炭水化物が脂肪になって身体に蓄えられるから体重が増えるのではなく(米はそう簡単に脂肪にならないだろう)、腸での滞留時間が長いからその重さ分だけ体重が加算されているだけだ(女性からすれば同じことかもしれないが)。日本人の寿命だけでなく気質までもが欧米化で失われていくような気がする

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躁鬱病

5年ほど前に友達が自殺した。躁鬱病だったらしい。彼は東大でも優秀で、特に勉強や研究での集中力は素晴らしかった。運動神経も抜群でテニスがうまく、トマトという東大で一番のテニスサークルで活躍していた。リクルートに就職したが子会社に出向させられ、SEのような仕事になった頃から会社を休むようになりそして辞めてしまった。その後、セールスマンになるとかいろいろやってみたがどれも合わなかったようで、結局、好きなことなら続けられるだろうという発想でスポーツライターになるべく、大量のヨーロッパの文学を買い込み勉強を始めた。しかし文才というのは書きたいことがあって初めて生まれるもので、技術を磨いたり他人の文章を研究して身につくものでもない。彼が書いた文章を死後に見たことがあるが、ひどいものだった。書きたいことがないのに無理やり文を連ねているだけだった。本人も自分の才能のなさに絶望したのだろう、早朝に自室で首をつったということだ。

当時は私もショックを受け、なぜ自殺しかなかったのか、なぜあれだけの能力を持ったものがそんなことになるのか整理ができなかった。しかし、私も会社を辞めて、サラリーマンとは何だったのか冷静に振り返ることが出来るようになって何となく状況がわかってきた。

そもそも、躁鬱病というのは、自己愛から始まる。自己愛というのは自分が素晴らしい存在であることに執着する心である。誰でも持っているし、それは決して悪いことではない。社会生活を営むことで生存する人間という動物に備わった基本的な本能であり、これがなければ人間ではなくなってしまう。人に尊敬されたい、人から感謝されたい、人に影響を与え人を幸せにする力を持ちたい、社会から必要とされる存在になりたい、自分がいたことで社会を幸せにしたい、そういう欲求だ。簡単に言えば、自分が社会にとって価値ある存在であることを確認したいということだ。鬱になるというのは、自分に価値がない、自分がいなくても誰も困らないと思ったときに落胆することで発症する。躁というのは何かのきっかけで自分って素敵、自分はすごいと思ったときにその気持ちが増幅して発症する。幸せいっぱいになる、いや、なったと錯覚する。そうして自分が取るに足らない存在だという現実から逃避しようとする、その現実を忘れようとする心の状態だ。つまり、躁鬱のどちらが真実かといえば欝なのだ。そしてそれにだんだん気がついて、その時間が長くなってくるともう生きている意味がなくなる。自分がいなくても誰も困らないし、自分にはそもそも価値はない。そして自分自身が毎日不幸なら死んでしまったほうが幸せだ、そういうロジックで死を選ぶ。

実は私も30代中盤は結構そういう気分になった。そのときは単純に自分の能力が足らないのが原因だ、自分に魅力がないのが理由だと、原因を自分に起因させて逃げ場のない苦しい状態に陥っていた。しかしそれは誤りだった。原因は個人にあるのではない。社会システムにあるのだ。

社会は、会社は、安定した生産体制を構築する知恵として、常にバックアップを考える。例えば一人の社員が会社を辞めても事業運営に支障が出ないように、常に代替社員を用意する。社員を交換可能な部品として規格化する。会社員でなくても技能職であれば事情は同じだ。そういう人間の規格化と交換可能というしくみは社会の基本的なシステムであり、学校教育もそのためにある。新入社員は自分がいつか素晴らしい存在になれるという希望があるから鬱になることはない。しかし30代になり、自分が代替可能な部品に過ぎないことがわかってくると心が病んでくる。それは本人が悪いのではく、効率化を第一に発展してきた社会のしくみの副作用である。社会がこの病を生み出しているのだ。ここから抜け出す方法はいくつかある。まずは結婚だ。結婚して家庭を持ち、子供が出来ると自分の存在理由ができる。自分がいないと困る人ができる。いつも自分の価値を確認することが出来る、だから会社では部品でもよくなる。会社が(かつて)扶養手当を出し結婚を奨励した理由はこういうところにある。しかし昨今、社会状況の変化により会社は結婚を奨励しなくなり、大量の独身者が生まれている。彼らはどうすればいいのか。一つは思い切って会社を辞めてしまうことだ。しかし、私の自殺した友達のように転職をしようと思ってはいけない。今となっては彼に転職ではなく起業すればいいんだとアドバイスできたのだが、当時は私自身起業するなどということは全く思いつかなかった。仕事というのは雇われることだと思い込まされていた。つまり、創造的な仕事をすればいいのだ。企業の歯車ではなくクリエイターになればいいのだ。クリエイターという仕事は、代替可能ではない。ミュージシャンや作家はもちろんだが、企業の中でも経営企画やマーケティングではクリエイティブな力が求められる。そしてその能力が最も求められるのが創業者なのだ。音楽を作るのも会社を作るのもそんなに変わりはない。自分の能力に応じて職種を選べばいい。価値を生み出して社会に定着させる。そのしくみにより人は将来にわたって幸せになる。それはCDかも知れないしブランドかもしれない。そうやって自分が生み出した価値を社会に遺す事が出来ればもう自分に価値がないなどと落ち込むことはない。創業というのは誰でも成功するわけではないのでこれは決定的な解ではないかもしれない。しかしサラリーマンでい続けるくらいなら挑戦したほうがいい。それにより命を失う確率より、欝で自殺をする確率の方が高いはずだ。

たぶん産業革命以前の社会では、人間は社会の歯車などではなく一人一人が個性を発揮して仕事をして鬱になるものなどいなかったのだと思う。ベルトコンベアーによる量産という考え方が発明された頃からおかしくなった。この社会にいることで誰でも鬱になりうる状況になった。そして、都市化による村社会の喪失により人が自己実現できる場は家庭しかなくなってしまった。独身者に家庭に変わる場を提供することができないだろうか、かつては村社会そういう機能を持ち、独身でも地域のお兄ちゃんとして活躍する場はいくらもあった。そんな場を事業として作り出すことができたら素晴らしいのではないか、そんなことを考えている。

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ボディビル

今NHKニュースで70歳のボディビルダーについて放送していた。すごい体だ。すごすぎる。

でも、でも

なんの役に立つのか・・・

実は私も毎週フィットネスクラブでバーベルを持ち上げている。私は大したことないので、50kgを20回上下するだけだ。それでも意外に胸がムキムキになる。簡単に筋肉がつく。プロテインは飲まない主義だ。何だか気持ち悪い。その代わりに豆乳は飲む。紀文の無調整豆乳に決まっているが、味も気に入っているので常備している。こういうのは効果が眼に見えるだけにはまりやすい。本当は私ももっと通ってすごい体にしてみたいなあと思っている。はまって没入して一生懸命努力するのは、辛いことだが実は快楽だ。楽だ。何も考えずに時間を過ごすことが出来る。だから私は逆に我慢して週一回しか通わないことにしている。理性的に考えると結果が不毛だからだ。いい体になって何になるのか、何の役にも立たない。健康になることは必要だがムキムキになっても仕方がない。時間がもったいない。他にやらなければならないことは山ほどある。

自己満足で幸せになる人もいるようだが、やはりそれは空しい。空しさに気がつくと幸せになる道は思ったより険しいことがわかる。私もやることをやって、老後はボディビルでも何でもいいから自己満足に時間を割くことができる身分になりたいものである

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寝ることの効能

人がなぜ寝るのか、寝ているときに何をしているのかはまだ完全には解明されていない。それは脳内情報処理の解明と表裏一体の研究なのでそんなに簡単にわかるわけではない。しかし概念的にはわかりつつある。短期の記憶をプログラムのようにコンパイルして長期の知識に変換しているとか、古い不要な記憶を消去して新しい記憶を記録するとか、利用する知識のプライオリティを体験に基づいて変更するとか、いろいろな説がある。夢を見ることもそういう処理と深く関わっている。

私も最近新しい学説を考えた。サラリーマン時代と違って仕事の結果が生活に直結するので仕事が思うように行かないとき、うまくいったときの感情の起伏が激しくなった。先日も現実が考えていたことと大きく違っていて、計画が崩壊してしまい大きく落胆した。酒をいくら飲んでもうまくなく、そして全く酔えない。サラリーマンをやっていればこんな苦しみもなく楽しい人生を送れるのにバカだったなあ等と考えてしまう。しかし元々楽天的な性格なのか、一日、二日寝ると早くも平常心に戻り、新たな計画も思いつき楽しい気分になった。そこで気づいた。人間の喜怒哀楽は想定している現実とのずれにより発生する。金持ちとしての現実を想定していたら年収1千万以下になったら絶望するだろうし、貧乏が現実ならば1000円貰っても大喜びだ。このように誰でも心の中に喜怒哀楽の0基準を持っているのだがそれは想定する現実をどこに置くかということであり、1日現実を体験して寝ることでそのレベルが修正される。現実とはこんなものだ、これが現実だ、ということを知識に組み込むわけだ。例えば昨日ガソリンを入れたらすごい値段で怒ったり嘆いたりするが、今日になればそれが当たり前になり何の感情も沸かなくなる。それどころか一年前には考えらなかった139円という値段でガソリンを入れることが出来たら喜びすら感じる。このように人間は喜怒哀楽の基準を日々修正するのだが、それが睡眠の効能だというのが私の学説である

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夜のウォーキング

湘南に引っ越してきてから発見したことがある。夜、スーパーに買い物に行くとその道すがら健康ウォーキングをしているおば様が多数いるのだ。数人のグループで歩いている人もいれば一人の人もいる。手ぶらで半運動着のような格好、タオルを持っているので一般の通行人ではないことがわかる。こういう現象は大阪では全く見たことがない。大阪でも団地の多いところではこういう人はたくさんいるのだろうか?
で、なぜ夜のウォーキング族が多いのか考えてみると、根本動機は健康管理やダイエットにあることは間違いがないだろう。なぜ夜なのかというと、昼だと日に焼ける、小さい子供の世話をしなければならない(夜は旦那に任せる)、光化学スモッグ(拡声器で今日も注意報発令のアナウンスがあった。これも大阪ではなかった現象だ)がない、涼しい、通行人がいないので恥ずかしくない、といった理由が考えられる。大阪では通行人もそこそこいるし、歩道が整備されていないので危険だし、治安も悪いので成立しないが、ここではそういう問題もなさそうである。ではなぜ彼女たちはフィットネスクラブに行かないのだろうか。それは聞いて見なければわからないが、お金がかかる、家の近くにないということもあるのだろう。でも主要因は違うところにあるような気がする。若い人に混じって(太った体で)運動するのが恥ずかしい、仲間内で大声でおしゃべりしながらするのが恥ずかしい、というようなことだ。マシンで黙々とやるよりも緑溢れた街を歩くほうが楽しいということも大きいだろう。
この現象から学べることは、街づくりはこういう利用のされ方を考えて設計すべきであるということと、商業ベースではないコミュニティによる自発的かつ創造的な活動の可能性だ。人間の時間の使い方というのは普通は、働く時間(生産者、お金を得る)と遊ぶ時間(消費者、お金を使う)の二種類で構成され、どちらにもお金が関連している。ところが、仲間を集めてウォーキングするという時間はどちらでもない。フィットネスクラブの経営とメンバーとしての利用を同時に行っているようなものである。もちろんお金はどこにも登場しない。一人の人間が生産者と消費者を兼ねているようなものだ。ネットの世界でのブログやSNSもこれに近い。地域通貨もそうなのだが、こういう経済システムに乗ってこない活動が21世紀の生活システムの大きな流れなのではないだろうか。街づくりや事業活動はこういう活動を支援するインフラのような形で社会貢献するというモデルだ。
考えてみれば人はお金のために働くが、それは自分の生活を豊かにするためであって、それがコミュニティでのサークル活動のようなことで実現されるならばそれでもいいわけで、その方が楽しいことも多々ある。生産性向上のために分業化や効率化がとことん追求され、村や家長制度といったコミュニティ活動が破壊尽くされたのが20世紀である。所属するコミュニティがないと活動ができない、活動が出来ないと創造性も発揮できずに自己実現もできない。確かにモノは何でも手に入るし食べ物も住居も快適になった。でも一人ぼっちでおいしいものを食べながら快適な住居でテレビを見ることがそれほど幸せかというと実はそうでもないことに気がついたのが今だ、と言えないだろうか。昔は、みんなで祭りをしたり、長老として若い衆にアドバイスしたり、隣家と物々交換をしたりしていた。本当はそういうことが幸せなことだった、そういう世界を取り戻したい、という機運がマグマのように噴出し始めたのがウォーキングであり、地域通貨であり、WEB2.0なのだと思う

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牛乳

牛乳が売れないらしい。2005年度に数千トンの牛乳を廃棄したらしい。スーパーの売り場を見ればわかるが依然として牛乳の消費量は多く、生産量は飲料の25%、年間4百万トンもある。だから廃棄した量で考えれば0.1%くらいなのだがこのニュースが大きく報じられた背景には、牛乳産業は衰退するという感覚が既にあり、その裏づけデータだとして注目されたということがある。実は私はこの2年ほど豆乳を飲んでいる。それ以前は納豆と牛乳の消費を支えているのは私ではないかというくらい飲んでいたのだが、腹回りのだぶつきの一因として牛乳が疑われたのでやめたのだ。豆乳は最初はおいしくないと思ったが、フィットネス後にみんなが飲んでいるプロテイン(私はサプリメントとかプロテインとかそういう自然でないものは口にしない)の代替になる、健康にいい成分が多く含まれている、という能書きで自己洗脳しつつ今では普通においしいと思えるようになった。私の体重管理の秘密の一つが豆乳である。夕食の前に一杯飲むと食欲やアルコール欲が抑制される効果がある。筋肉もつくし、肌や髪の調子もいい。まあそれはいいとして、先日スーパーに行くと無調整豆乳が品切れだったので牛乳業界のために牛乳を久しぶりに買った。家で飲んだ。ん、なんだか物足りない。確かに昔おいしいと感じたおいしさはあるのだがこくが足りない。さらに飲んだ後の「気持ちの」後味が悪い。身体に悪いものを飲んでしまった、この牛乳を生み出すために牛が不自然なものを食べさせられている、そういう添加物というかホルモンのようなものを飲まされているのではないだろうか、そんな気がした。その牛乳を飲み終わったので昨日豆乳を買いに行った。いつもの無調整豆乳が品切れだったので少し高い紀文の「契約栽培珠美人採用」成分無調整豆乳を買った。うまい。牛乳よりうまい。そして、いつもの豆乳よりうまい。この豆乳はとてもおいしい。オススメです。長くなりましたが、要するに牛乳の完敗です。今思えば、雪印の事件により乳製品が売れなくなったのではなく、乳製品が売れないのでああいう事件が起きたのだ。牛乳業界は牛乳の消費を立て直すために一生懸命のようだが、それは違う。彼らは健康を売っているのではなかったのか。もし健康を考えたときに豆乳が優れているのであれば豆乳を推奨すべきだ。産業構造的に豆乳を作れないならば、自分たちができることで健康に貢献する商品を、飲料でなくてもいいから考えなければならない。事業というのは自分が属する商品分野で新商品を考えるのではなく自分たちに作れる新商品を、分野を超えて考える行き方が正しい。永続している企業というのは元々売っていた商品分野から大きく外れている例が多い。そしてもちろん商品開発のもう一つの基準は自分たちは何を売る会社なのかという理念だ。理念とできること、この二つを備えていることがその企業の存在価値であると言える

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コーラのことをジュースというかどうか議論になった。果汁で作ったものでないとジュースとは言わない!、と私は思うのだが確かに子供の頃から甘い飲み物をジュースと呼んでいた。しかし最近はかなりの部分がペットボトル茶やミネラルウォーターに置き換わったようだ。そもそもコーラとかああいう飲み物は身体には余りよくない。ところで、登山の時に飲みたい飲み物はなぜか水である。「ジュース」はもちろん、麦茶やウーロン茶もいやだ。水がいい。同様に震災があるとそこで求められる飲料はやはり水である。人間命がかかる状況では水を欲するのだろうか。通常の生活では麦茶やコーヒーという選択肢があれば水はあまり飲まないと思うが、屋外で野生に戻った人間は喉が渇くと水を欲する本能が発動するのかもしれない。理性に押さえつけられていた本能が活動するというのはストレス発散で大事なことなので、時々、水が欲しくなるような状況に自分を置くことは健康的な精神生活を送る上で必要なことなのではないかと思う

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