映画・テレビ

マードゥリ勝手にベスト3

Ma1 すべてのMadhuri出演映画を見たわけではないが、半数以上は見た。ベスト版も何枚か見たので代表的なミュージカルシーンはほとんど見ているはずだ。もちろん、Madhuriのことだからまだ見ていない中にも傑作はあるに違いないが現時点で勝手にベスト3を決めてみた。

一位は、マードゥリの実質的なデビューであるTezaabから、Ek Do Teen。これはもう、インド人的にも、ファン的にもはずせない曲だ。後のマードゥリの作品でのトレードマークとなる、顔芸、尻芸の原型はここにあり、ダンスは既に完成されている。特筆すべきは、この時点で本来の得意であるカタックではなく、自由奔放な創作ダンスを踊っていることである。ファッションモデルとしての経歴をパロディ化したような場面も盛り上がるところで使われており、この一曲でマードゥリのすべてを表現しようという心意気が伝わってくる。楽曲も申し分なく、マードゥリはこういう大観衆を前にした舞台が一番素晴らしい。この曲のような大人から子供まで楽しめる作品というのは世界的にもそんなにないような気がする。

二位は、KhalnayakからChori Ke Peecheを選んだ。この映画にはもう一曲、「トゥットゥルトゥトゥトゥトゥ、トゥットゥルトゥトゥトゥトゥ」で始まる名曲Palki Pe Hoke Sawarがあるが、これ以上にChori Ke Peecheは素晴らしい。エジプトのベリーダンサーも負けそうな腰振りに始まり、ユーモラスな振り付けが圧倒的な楽曲と共に次から次へと披露される。何度見ても見飽きないし、CDで曲だけを聞いても終盤は熱狂してしまう。欲を言えば、最後の太鼓の場面もマードゥリで締めて欲しかった。

三位にはYaraanaから、Mera Piya Ghar Aaya。この曲はなぜか映画のDVDからはカットされているのだが、ベスト版には必ず収録される。まず、曲のアレンジがとてもいい。CDの高音質で聞くと細部まで作りこまれていて聞き惚れる。そして映像は本当に素晴らしい。恐らく、このプロジェクトは、Ek Do Teenに敬意を払いつつ、それを超えるべくして進められたのだと思う。ピンクの衣装のマードゥリのモダンダンスは実に正確で切れが良く、オリンピッククラスの実力者だということがよくわかる。サリーに身をつつんだベリーダンスもポイントでの衣装の跳ね上げの技術などは他の女優には不可能なレベルだ。特に中盤の緑のサリーでの中腰の動きからのユーモラスな舟こぎダンスは圧巻で、見重ねるにつれてまた見たくなるような中毒性の魅力を持っている。

その他、AnjaamやBetaにも素晴らしい曲がいくつもあり、どれも甲乙捨てがたい。後日、Madhuriベスト10として発表しようと思う

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AAJA NACHLE(その3)

torrentで高画質なAAJA NACHLEが手に入ったので全編をちゃんと見た。英語字幕も付いている。日本では絶対に公開されない作品なのに公開直後に家で見ることができる。デジタル革命とはこういうことだ。本当は劇場で、あるいは正規DVDを購入して見たいのだがそれができないので仕方がない。今度インドに行ったらちゃんとDVDを買うということで許してほしい。

ところで、映画である。ネットで見かける評価は脚本が悪いというのが多かったが、インド映画はそういうものである。確かに、素人から見てももっとこうすれば盛り上がるのに、という面は多々あったがインド映画は理屈で見るものではない。記憶に残るものを目指すのでストーリーの破綻や脚本の弱さはそれほど問題ではない。「これでインディア」というサイトでは「最近のボリウッド映画は情熱が感じられない。この映画もそうだ」と手厳しいが、確かにそういう面はあった。例えば、傑作の誉れ高いLagaanも、Aaja Nachleと似たストーリー展開であったが遥かに熱いものを感じた。アーミル・カーンが熱い男というのが画面を通じて伝わってきたものだ。具体的には、不可触民差別への問題提起、そして自然な暗示による神の存在ということをテーマにしていたことが作品に深みを与えていた。Aaja Nachleはどうかというと、そもそもマードゥリが立ち上がる動機からしてよくわからない。多くの人が心血を注いで頑張る理由も弱い。音楽やマードゥリで場面は一応盛り上がるが、終わってみれば何も残らない。要するにテーマがないのだ。「これでインディア」が「何かが足りない」と指摘しているのはこういうことだと思う。

しかし、この映画の本当のテーマを考えればそれもいた仕方ない。この映画のテーマはマードゥリ復活祭なのだ。だからメッセージは邪魔なのだ。そういう背景を考えなければなぜこんな映画になったのか理解できないだろう。マードゥリのファンとしては決して悪い映画ではない。2時間20分の映画だが退屈することもない。さすがにマードゥリも歳を取ったと思わざるを得ないが、歳相応の魅力もあるのでマードゥリを見ているだけで幸せになれる映画である。マードゥリ復帰第一作としてはしっかり作られたと言えるのではないだろうか。最近ボリウッドで流行のアクション映画よりは遥かに見る価値があるボリウッド映画だというのが結論である

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Hum Aapke Hain Koun

ストーリーというストーリーもなく、メッセージもあるのかないのかわからない。起承転結もなく、どんでん返しもない。脚本に無駄を省いた努力も見られないし、冗長だといわれればとてつもなく冗長だ。しかし、すべてのシーン、カット、フレームが光を放ち、詩情をたたえる。登場人物からはオーラが発せられ、どの瞬間も決して退屈することはない。映画とはシナリオではなく、映像そのものなのだということが黙示される。

そういう感覚を覚えたのはタルコフスキーの映画であった。特に、惑星ソラリス。異様に長い作品だがストーリーはほぼない。しかし全く退屈することなく、映像に、台詞に引き込まれてしまう。コンテキストを無視してもいい。どの瞬間も魅惑的で、詩が溢れていた。タルコフスキーの作品はそういう、著名な絵画が放つような魅力に満ちている。まるでレンブラントやフェルメールの絵を見ているような波動がスクリーンから出ているように感じる。

その感覚を久しぶりに味わったのがHum Aapke Hain Kounである。タルコフスキーのような暗さや深さとは対照的な明るい映画なのだが、なぜか共通するものを感じる。この映画もストーリーらしきものはほとんどない。一応あるが、割とどうでもいい。この映画も長大だが、ここのシーンを見ているだけでなぜか癒される。非常に不思議な魔力を持った映画だ。

こういう奇跡的な作品は天から落ちてきてそして消える。タルコフスキーはジェリー・ガルシアはそれを捕らえて長期間に渡って多くの作品を残すことができたが、ほとんどの作家は一度作れても二度と再現することができない。この映画の監督もそうだった。マードゥリという女優に恵まれたことも幸運だったが、この微妙な感覚もこの一作だけで、それ以降はどうしても取り戻すことができなかった

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AAJA NACHLE(その2)

遂にマードゥリ復活第一作、AAJA NACHLEが公開されたようだ。本編を劇場で撮影したらしいビデオと公開直前にインドのテレビに出演したマードゥリのビデオをtorrentで落として見たが、心配を吹き飛ばすほどにマードゥリは相変わらず美しい。40歳になったはずなのだが、衰えるどころかますます美しい。私の中では、現時点のマードゥリであっても古今東西、史上最高の美人である。というか、本当に神の化身かもしれない。

映画自体の評判はそれほど高くないようだ。しかし、そんなの関係ない。この映画はマードゥリへのリスペクトを示す、復活祭のようなものだからだ。とにかく嬉しい。これからはどんどん映画に出てほしい。恐らく人格的にも素晴らしいものを持っているのだろう。共演者が語る尊敬の言葉、そしてマードゥリの声や一挙一動がマードゥリを輝かせる。

マードゥリが本物のプロだなあと思うのは、全く出し惜しみをしないところにある。先月のテレビ番組でもスタジオで踊りだしてしまう有様で(普通はこれほどの名声を確立した大御所大女優が、ゲスト出演した番組で多くのダンサーを前にして踊るなんて考えられない)、そういう乗りの軽いところが大好きだ。30歳を超えてもへそを出して踊るし、本物の大蛇と絡むことも厭わない。キスシーンだってやってしまうし、太腿を露にするようなインド人的には相当恥ずかしいはずの衣装も、胸をダクダク突き出す踊りもやってしまう。ところが何をやってもいやらしくならない、常に高貴で健康的な絵になってしまうのがマードゥリマジックである。色気がないということではなく、品位があるというか、王女のような気高さというか、要するに生活臭が全くなく、宝石を見ているような感じなのだ。アイシュワリアもそういう感じを目指しているようだが、彼女の場合は花の香りが匂い立つ感じにはならずなぜか無機質になってしまう。アイシュワリアは、イシュケミーナやカジュラレのようなチョイ悪でコケティッシュな役(ボンドガールにぴったりだ)こそが最高だと思っているのは私だけではないはずだ。アイシュワリアにはMehbooba Mehboobaのヘレンを目指してほしい。

持って生まれたものが違うのか、幼少時からのカタックの訓練がそういう優雅さを生むのかは分からないが、こういう気品を感じさせる女優はマードゥリ以外にはRekha(レーカー)くらいしか思いつかない。そしてマードゥリがレーカーを超えている理由は、演技も踊りも出し惜しみをしないで何でも挑戦してきたことにあると思う。そういう人生に対する姿勢が人間の限界を打ち破り、神の領域の作品を生み出してきたのだと思う

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Mehbooba Mehbooba

インド映画のミュージカルシーンを集めたDVDを見ていた。一枚に50曲くらい入っているので飛ばし飛ばし見ていた。新旧Umrao Jaanのダンスシーンがたくさん入っていて、やっぱりRehkaは綺麗だなとか、Aishwaryaもずいぶんうまくなったなとか思っていたらだんだん眠くなってきた。そして次の曲が始まった。

目が覚めた。とんでもないものを見てしまった。Mehbooba Mehboobaである。曲自体ぶっとんでいるが、冒頭登場するダンサーがはじけている。時代を超えて絶対に超えることができないパフォーマンスというものがあるが、これもその一つだろう。もっと美人、もっとうまいダンサー、もっと優れた撮影技術は現れるかもしれない。しかし、時代背景やダンサーのそれまでの生き様、そういう色々な要素は再現できるものではなく、その瞬間に核爆発を起こすようにパフォーマンスが炸裂する。何度見ても素晴らしいシーンだ。

パッケージを見ると何とあの有名な映画Sholayの1シーンだった。Sholayは既に伝説になっているが、ミュージカルシーンもすごかったのか・・・

踊っているダンサーはヘレンという女優で、調べて見ると驚いたことに、映画サラームボンベイで使われていた私が大好きなMera Naam Chin Chin Chooを踊ったダンサーであった。それでyoutubeでそのオリジナルの映像を見たのだが、これまた素晴らしいダンスシーンだ。

映画というと欧米に目が行ってしまうが、インド映画の歴史の中にもどうやらすごいものがたくさんあるようだ。しばらくインドから離れられそうもない

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Anjaam

「地獄曼陀羅 アシュラ」 というタイトルで日本でも紹介されたシャールク・カーンとマードゥリ・ディクシットのボリウッド映画だ。

傑作である。

インド映画には複数の異なるテーマの映画を連結させて3時間くらいの1本の作品にするケースが多いが、この映画についてもそれは言えていて、序盤だけ見たら、無邪気なシャールクの片思いのコメディ映画である。終盤はバイオレンス映画である。全体を通して見ると、ルイス・ブニュエルにも通ずるシュールな作家性があり、宗教的でもあり、作りは荒いが作品として面白い。特にマードゥリが全身麻痺したシャールクの周りで天使のように歌い踊るシーンは人間の二面性、人生の不条理を表現した名シーンだと言える。このシーンを見ていてもう一つ驚くのは、最初から最後まで編集無しの一本撮りという点だ。つまり、曲の頭から最後までマードゥリは完璧に暗記して、完璧に踊りきっているわけだ。マードゥリはいつもこんな感じに、さりげなくすごすぎる。

この映画の見所は他にいくつかあって、エア・インディアのスチュワーデスになったマードゥリ、マードゥリのノーメイク(っぽいメイク)が見られるのは嬉しい。

そして、何より、曲がとてつもなくいい。マードゥリの多くの映画の中でも屈指の曲の良さと言える。音のいいCDで聞くと何度でも聞きたくなる。マードゥリのダンスシーン3曲はダンスも素晴らしいし、シャールクのBadi mushkilは日本でもヒットするのではないかというメロディラインを持っている。この4曲のビデオを見る限り、この映画の後半の展開を予想することは不可能である(よく見ると、Barson keのダンスの相手は全身麻痺のシャールクであり、曲調からかけ離れたシチュエーションが不可思議なシーンではある)。異なるテーマをてんこ盛りにしてしまうインド映画を代表する不思議な傑作と言っていいと思う

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Saajan

Madhuri Dixitの映画は多々あるが、この映画のマードゥリが一番「かわいい」のではないだろうか。初期のマードゥリは化粧がコテコテで素朴な感じだ。Hum Aapke Hain Koun以降のマードゥリはゴージャスな美しさという感じでかわいいという言葉は適切でないような気がする。

Saajanのマードゥリは何と言うか、女の子の可愛らしさという点で想像のレンジを超えていて、この世のものとは思えないほどだ。特に、アマンが茶店でマードゥリの本屋を見ているときに後ろからアマンに近づいていくマードゥリの演技は抜群で、嬉しくてぱっとスマイルする瞬間の顔にはノックアウトされる。また、Dakha Hai Pehli Baarの冒頭の白いドレスに身を包み陶然とした表情のマードゥリはお人形のようにかわいくハッとする。なんとも表現に困るが、子供の可愛らしさではなく、美しい女性の花のような可愛らしさがエッセンシャルオイルのように匂い立つような可愛らしさである。そう、花を見ているような感じだ。

私は少女漫画のような乙女チックなものには全く反応しないのだが、この映画のマードゥリは別だ。他のインド女優にはないマードゥリの魅力の一つにそういう花のような清楚な美しさがあるのは間違いない。Ek do teenやMira payaのような元気な魅力、KhalnayakやSangeetでのセクシーな魅力、Devdasのような高貴な魅力、マードゥリは普通の女優が一つでも持てれば幸せというような魅力がすべて備わっているのだが、花のような美しさを満開に見せたのがSaajanだと思う。

映画自体の出来も良く、3時間飽きずにしっかり鑑賞することが出来た。へそ出しベリーダンスがないのは残念だが(それは他の作品で見ればいい)、Tu sayer haiという名曲も含まれていて、数あるマードゥリの映画の中でも好きな一本である

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シャールクとマドゥリ

インド映画DVDの専門店の店員のインド人何人かに、好きな俳優が誰か聞いてみた。多くの名前が出てきた。私が知っている人も何人かいる。しかし、シャールク・カーン、マドゥリ・ディキシットという名前がない。

シャールクは好きではないのですか? と聞いてみた。とたんにインド女性の顔がほころんだ。シャールクの名を聞くだけで嬉しくなった顔である。そして言った。

「当たり前じゃない。インド人は全員シャールクが好きに決まってるの」

男性に対してマドゥリが好きかというのも同じことである。つまり、この二人が好きなのは自明の理なのだ。聞くまでもなく当たり前だから誰も好きだといわない。すごいことである。

インド映画スターというのは、深層心理にまで到達していて、多くの人にとって人生の一部になっていたりする。だから、シャールクの名を聞くだけで一気に気分が高揚する。インド映画というのはどうやら普通の映画ではないようだ

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AAJA NACHLE

Aajanachle バンコクには何度も行っているが、知らないでいることもたくさんある。タイはずいぶん近代化され、15年くらいまであった怪しさというか、東洋のアムステルダム的な文化もずいぶんなくなってしまった。もう普通の都市になってしまったかと思っていたがそんなことはなかった。それが、スクンビット・ソイ5とパフラット市場である。

今年に入ってエジプト系のダンス/音楽とインドへの興味が蘇ってしまったので、バンコクにそういう場所がないか調べたのがきっかけで、そういう場所があることを知った。早速訪れてみた。

スクンビットのいつも通り過ぎている場所にアラブ人街がある。一歩足を踏み入れると、ベールをまとったアラブ女性、ケバブ店、アラビヤ語の看板のシルバーなレストランに、怪しげな口ひげのアラブ人、アラブ人。こんな楽しい場所がこんなところにあったとは・・。アラブ料理でも食べようかと思ったが、よく観察すると全員水しか飲んでいない。ここでビールを飲むのは勇気が要りそうなので食事は諦めたが、こういう街があるからバンコクも捨てたものではない。

そしてインド人街。うまいカレーを食うことができた。タイで食っているのは、インド料理、中華料理、韓国料理、日本料理が実は多くて、タイ料理はその合間に食う感じだ。ここのカレー、マサラ、ナンは本格的で、街を歩くとインドの線香の匂いがして嬉しくなる。
そして、ここに来た目的であるDVD/CDショップ。50枚ほど買った。ほとんどがMadhuri Dixitの映画だ。これで、死ぬまで楽しめそうだ。ここでもポスターが貼ってあり、期待の大きさが伝わってくるのがAAJA NACHLEというMadhuriの新作。音楽もすごく良くて映像が楽しみだ。サウンドトラックではMadhuriもちょっと歌っているが、この人の声は何でこんなにいいのだろうと思うほど聴き惚れる。声を聞いているだけで気持ちよくなってしまうというのは初めてのことだ。この新作は何億ものインド人が待ち焦がれているのだろうが、日本では全く紹介されないことに違和感を感じる。今回バンコクに8日間いたが、面白くない毎日の中で、ここ、パフラットだけが胸躍る場所であった。結局4回も行ってしまった。インドがこんなに楽しいなら、今度は是非ムンバイに行ってみたい。Madhuriの全作品をブルーレイにして完璧な日本語字幕を付けて販売する、これがちょっと先の目標になった

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爆笑問題のCM

爆笑問題が求人誌のCMで

太田「壁に突き当たったら右か左どちらに行くべきか?」

田中「よじ登る」

いいことを言っていると思ったが、よく考えるとこれは真実ではない。現実の事業や仕事では太田の発言が正しいことが多い。よじ登ることにこだわるから突破口が見えず挫折する。少し離れて考えれば横から回れば向こうに行けることに気が付く。よじ登る力があるから逆にそのことに気が付かず、力がないものが横から通り抜けるのに負けてしまう。

これはイノベーションのジレンマと言われている現象である。最近の事例では、PS3を作る力がない任天堂がWiiで大勝利したのもそうだ。

太田「人はなぜ坂を登るのか?」

田中「違う景色が見えるから」

これもいいことを言っていると思ったが真実は違う。景色などすぐ飽きてしまう。山頂は退屈だ。実は、登るという過程が楽しい。車に乗せてもらって登頂するのでは、登山の楽しみは得られない。仕事には苦労がつきものだ。楽しみのために苦労していると思いがちだが、実は苦労自体が楽しいのだ。まるで青い鳥だが、これは事実である

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星飛馬

14チャンネルで新巨人の星が放映されている。
なんとなく見ていたのだが、なんか変だ。

この漫画は実は、「とても頭が悪い子」を周りが優しく見守るという話なのではないか・・・。

ヒーローであったはずの飛馬が、自意識過剰の知恵遅れにしか見えない。なんなんだこいつは。親父も親父、今なら児童虐待で捕まるだろう。そもそも、一人との勝負にこだわり左腕を失うという発想は超頭が悪い。そんなことより息長く勝ちを重ねる方がずっと意味がある。あれだけ努力したのに、普通の人の王さんや長島さんが遥か上の人、どれだけ恵まれない子供なのか・・・。

ヒーローものの形を取りつつ本質は、頭も悪く、才能もない不憫な子供を児童虐待の親と優しい金持ちが見守るお話。だからこそ多くの人の共感を誘ったのだろうか、私を含めて(絶句)

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DDLJ

Dilwale Dulhania Le Jayenge というインド映画がある。通称DDLJ。ムンバイ(ボリウッド)映画の最高峰と言われ、歴代興行収入も確か一位か、悪くても三位だったと思う。トップスリーがアミタブ・バッチャンのSholay、マードゥリのHum Aapke Hain Koun、そしてDDLJというのは間違いない。

正直言って、初めて見たときにはひどい映画だと思った。シャールクはともかく、カージョルの演技とダンスはひどい(脚も太い、太すぎる)。マドゥリとは神と人間くらい演技力が違う。シナリオ、編集も雑。何より、この映画を見て何も学ぶことはなく、テーマも幼稚だ。なぜこの映画がそれほど受けるのか理解できなかった。

しかし・・・

何日か日がたち、サウンドトラックの歌を聞いていると、妙にリアルに思い出されてくる。例えば、久しぶりにランバダとかチャチャチャとか、20年位前に大ヒットした曲を聴くと、その当時の時代背景や自分の思い出が曲と共に蘇り、懐かしくなったり感傷的になったりする。DDLJの歌を聴くと、まるで自分の体験だったかのように映画のシーンや主人公の思いが心の中に再現されるのだ。歌と共に思い出が刷り込まれている。それでもう一度、歌のシーンやその前後を見る。すると、幸せだった頃の思い出が蘇るようにシーンに気持ちが同化する。彼女とヨーロッパを周ったときの楽しかったこと、分かれるときのさびしかった事、そういうことが自分の体験として思い出される。

わかった。インド映画は体験なのだ。映画を客観的な対象としてメッセージを読み取る欧米の映画と同じ見方をするものではないのだ。インド映画は、自分の体験として体験するものだ。映画を通じてインド人は人生を生きる。どんな人生を生きたいか、カージョルと恋に落ちて伝統と戦いながら最後には幸せを勝ち取る、そんな人生を送りたいだろう。DDLJはその要望にぴったり応えたというわけだ。Hum Aapke Hain Kounもそうだ。映画が自分の人生の代わりになっているのがインド映画の本質だ。

思い出に歌はつきもの。だからインド映画に歌は欠かせない。DDLJやHAHKのサントラを聴いていると、映画のシーンが自分の思い出のように思い出されるのが不思議だ。こういう作風はハリウッドにもある。タイタニック、そして風と共に去りぬ。当時、タイタニックは映画評論家には酷評されたが、ファンにとっては最高の映画だ。その構図はインド映画と全く同じである。

映画とは何なのか考えてしまう。少なくとも、文芸作品や娯楽作品の評価手法がインド映画には適用できないことは確かだ

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Madhuri Dixit

マードゥリ・ディキシット(マドゥーリと書く人もいる)。インドの大女優である。日本で同じような存在と言えば美空ひばりだろうか。ただし、マドゥリは歌はほとんど歌わない。

渋谷陽一という音楽評論家が「レッド・ツェッペリンについては私は批評できない。冷静さを保つことができず単なるファンになってしまう」と言っていたが、人間というのは自分の感性のダイナミックレンジの外にあるものに対しては批評力を失ってしまう。自分が考える最高よりもっと上なのだから評価できない。神の領域である。

Madhuriはその領域にいる、私が知っている唯一の女優だ。女優としてだけでなく、踊りについてもそうだし、単にインタビューに答えてしゃべっているだけでもだ。Madhuriがしゃべる声、Madhuriの表情を見ているだけで心がとろける様に癒される。顔が自然にほころんでしまう。

恐らく、インド人のほとんど、そしてMadhuriを見た人のほとんどがそう思っている。今まで、Madhuriが評価されるのを聞いたことがない。常に、賛美され崇拝される対象になっている。

10億の人口のインドで100年に一人出るか出ないかの美人であり、その美人がとてつもない練習を重ね、惜しげもなくへそを出して踊り微笑む。まさに、地上に遣わされた女神と言えよう。Madhuriは聖母マリアの生まれ変わりではなかろうか。

MadhuriのファンはMadhuriが神だと思っているから自分の仮想恋愛の対象とは全く思っていない。だから、Madhuriが結婚をし、子供を生んで幸せな生活を送っていることを心から嬉しく思う。Madhuriの誕生日はもちろん神聖な日である。私が会社の登記申請をした日もMadhuriの誕生日である。Madhuriの誕生日に会社の創立も祝う。ささやかな楽しみだ。

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リチャード・ギア

が、シルパ・シェティにあんなことをして、あんなことになったが、まあ当然だろう。あのくらいのことでという論調だったがそんなことはない。もし、相手がMadhuriだったらインドとアメリカの国交が途絶えるか、戦争になったはずだ。私も暴れていたに違いない。

そんなことを考えていると、ほんの四五十年前の日本もそうだったんだろうなあと思った。当時の人たちの立ち振る舞いは美しく、表情にも気品が感じられる。恥じらいと誇りがあった。ああいうことを笑って済ますような人たちではなかった。欧米の人が惹かれたものが何であったかがわかる気がする。たぶん、私が今、Madhuriに対して抱くような驚きを日本人に感じていたに違いない。日本人はそういう輝きをすっかり失ってしまったが、もうすぐインドもそうなるのだろう。そうして確実に美しい何かが失われていく中で、それを失っていない途上国だったインドの宝を、失ってしまった国の技術で永久保存できた、絶妙のタイミングで出現した奇跡がMadhuriだったと言えるのかもしれない

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インド映画

インドというのは人口も多いし、映画制作数もすごい。しかし、なぜか俳優の面子が10人くらいに決まっていて、この20年くらいの映画を見るとどの映画も同じ俳優が出ている。その中でもアミタブ・バッチャンとシャールク・カーンというのはお化けのような俳優で、三船敏郎が今でも映画に出ているような世界だ。
シャールクというのはインドのキムタクみたいな存在で、私も嫌いではない。へんな顔なのに強烈な惹きがある、いい男だと思う。

しかし、Devdasを見て思ったのだが、シャールクは我らがMadhuri(出演時35歳)がいくら優しくしても無視して、アイシュのことばかり考えている。あんたは、この前(10年前)、命をかけてMadhuriを守ったんじゃなかったんかい! 若けりゃ何でもいいんかい! と言いたくなる。つまり、男優は10年たっても主役、女優は年齢と共に主役が若返るのだ。

しかし、私だけでなくほとんどのインド人が「俺ならMadhuriを取る」と思うはずで、それなのに作品を成立させてしまうところがインド人の不思議さというか奥深さというか、素晴らしいところではある

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死刑台のエレベーター

なぜ、「死刑台のエレベーター」ごときの漢字変換ができないのか朝から腹立たしいマイクロソフトだが、昨晩この映画を見てしみじみと感動した。本当にいい映画だ。何となく目に留まったので録画しておいたもので、寝る前につまらないかどうかチェックしようと思って見始めた。学生の頃からこの映画は気になっていたのだがなぜかまだ見ていなかった。古い映画だから退屈かもしれない、妙に文学的で演出が冗長かもしれないと、少し見てつまらなかったら削除しようと全く期待していなかった。ところが、面白くて最後まで一気に見てしまった。古さを感じさせるどころか逆に今見て美しく感じる当時の車やカメラの造形美、統一されたスタイリッシュな空気、よく練られた脚本、どれをとっても研ぎ澄まされた一流の仕事だ。

最近映画を見て感動することが少なくなった。面白くないので途中で見るのをやめてしまうこともよくある。最後まで頑張ってみても時間の無駄だったと思えることが多い。その原因は私が歳をとって少々のことには新鮮さを感じなくなったとか忍耐力がなくなったとかそう考えていた。しかしそうではないようだ。いい映画はやはりいい。近年の映画がつまらなくなっていたわけだ。

映画がつまらなくなった理由の一つとして商業主義で作られ作家性が失われてしまったことがよく言われるのだが、そう一言で片付けるのも何なのでもう少し考えたい。先日NHKのプロフェッショナルで漫画家が「ボブディランの大衆に迎合しない、自分が本当にいいと思ったことをやる姿勢が自分のやり方の拠り所だ」と語っていたが、創作の本質を捉えている。金儲けのためにやるのか、わかってくれる人は少数でもいいから人生にインパクトを与えるような価値を創造したいと考えるのか。映画作りも資本家によるビジネスとしてしか成立しない現代に後者の考え方で創作することはほとんど不可能になってしまったようだ。映画はとにかく金がかかるからだ。

もう一つ言える事は、合理化の中で現代人はやはり多くのものを失っている。法隆寺のような美しい木造建築を今作ろうとしたら逆に莫大な金がかかってしまうとか、鎌倉時代の刀をどうしても再現できないとか、過去に人類が蓄積してきたアナログ的な知識や技術を完全に失っているのだ。だからルイ・マルの映画を今作ろうとしても実は作れないのではないか。モノクロの質感、マイルスの音楽、ジャンヌモローという女優、どの一つを見ても再現できそうにない。最近の映画に見切りをつけて、まだ見ていなかった過去の名作に回帰しようかと思っている。

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進化論の真実

ダーウィンが来た でガラパゴス島のフィンチの嘴の進化についてやっていた。餌の種類によって形が変わってくるのだという。それは知っていた。驚いたのは、枝を削っていい形にしてそれを穴に差し込んで虫を取るフィンチの種類があるという話だ。放送しているときは単に驚いただけだった。何日かして何となくそのことが思い出され、考えているうちに改めて驚いた。習得した知識、技能が遺伝するのか!? このフィンチは親がやっているのをみて子が真似をするのではなく「枝で虫を取るフィンチ」なのか。ダーウィンの進化論についての話なのだからそうなのだろう。あるいは真似をする知恵を持つまでに進化したということなのだろうか。そういうことなら納得はできる。このフィンチの子を親と引き離して育ててもやはり枝を使うのか検証して欲しいところだ。もしそうなら、学習したことが遺伝するという画期的な話になる

蛇足:以前、水道のレバーを押して水を出して水を飲むカラスの存在が放送されていたが、このフィンチもそういうことであって、「枝を使うフィンチ」という種が生まれたというのとは違うのではないだろうか

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住吉美紀

NHKのアナウンサー。プロフェッショナルや迷宮美術館のレギュラーを勤め、正統派ニュース以外の番組ではNHKの顔、最も働いている人だと思う。嫌いなタイプではない。知的だがねじが一本抜けている、そんな愛すべきキャラクターで、顔が何だか福笑いで作ったかのように造形がヘンなのもかわいくていい。だが・・・

どうして君はいつもヘンな服を着ているのだ?? 美しいわけでもなく、流行と言うわけでもなく、コスプレというわけでもない、なんかヘンな衣装。
誰が着せているのか、本人が好きなのかよくわからないが、真夏の珍事と言えよう

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ダ・ヴィンチ・コード

ひどい映画だ。2時間以上が苦痛だった。インディ・ジョーンズのようなものと聞いていたが面白さが全く違う。第一に最初から最後まで画面が暗すぎる。陰鬱な気分がずっと続く。そして主人公がオリエンテーリングのように謎解きをしながら各地を回り、最後にゴールするのだがこれがまた安易だ。何のひねりも知恵もなくトムハンクスが一瞬でパズルを解いてしまう。お話とはいってもそこまでリアリティがないのはひどいぞ!そもそもなぜ最初に人が殺され、なぜ主人公が逃亡しながら謎を追っているか理解不能だ。だから感情移入もできない。脚本(原作?)がだめなのか。ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」のように展開が面白ければシナリオの矛盾や説明不足は全く許せるのだが、そういう面白さもない。
問題はなぜこんな駄作ができてしまうかということだ。巨額の予算と最高のスタッフが投入されているわけで、彼らの制作能力が低いからこうなったわけではない。なぜこうなるかというと彼らが作ろうとしたものが「いい映画」ではなく「動員できる映画」だからだ。スピルバーグの映画は、彼自身が「面白い映画」を徹底的に追求しスタッフは彼を支援することに専念するので結果として面白い映画になるが、ロン・ハワードクラスが原作の縛りの中で制作する場合、監督は創作するのではなく会議で決まったことを実行するだけみたいなことになる。会議では過去の映画のヒットの方程式のようなことをどれだけ盛り込むかばかりが議論される。それはジョンレノンがマーケット調査に基づいて作曲するようなもので、そんな音楽家ばかりでは音楽は今でもグレゴリア聖歌しかないかもしれない。創造的であること、ビジョナリーであることはマーケット調査や過去の成功要因分析から出てくるものではなくクリエイティブな人間から生み出されるべきものだと思う。
話を戻すが、なぜダ・ヴィンチ・コードの原作が売れたかというとそれは作品として優れていたからではなく、ダ・ヴィンチやキリスト教の神秘性に対する「知りたいという欲求」をうまく捉えて、こじつけにしろ一応その答を作ることに成功したからだろう。「つかみ」が絶妙だった。その理屈付けはなかなか見事なものがあるので、こういう「殺人事件スリラー」などという神秘の謎解きとは何の関係もないお話は一切削除して、NHKスペシャルのような真面目な調査報告のようなものにしたらかなり面白いものになったと思う。しかし、それでは本も売れない、観客も動員できない、からこうなる。しかしこんな理屈をこねているのは私くらいで、ほとんどの人は素直にこの映画に満足するのだろうか。もしそうならば、制作者は「正しく」映画を作ったと言えるのか? いい映画より売れる映画を作るほうが正しいのか? そもそもいい作品とは何なのか? もしこの映画が私の感想と違って「面白かった」と言われるならば私の負けである(何の勝負だ?)。この映画を見た人が「ひどい映画だった」と言ってくれるのを心から祈るばかりである

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サンダーバード

サンダーバードと言えば何と言っても2号である。1号も4号もちっともよくない。やはり2号だ。今考えると一番ずんぐりしていて亀みたいでどう見てもかっこよくないのだが子供心からすれば圧倒的に存在感があり魅力的だった。亀だからなのか? そういえば怪獣の中ではガメラが好きだった。亀は首や手足を引っ込めると鉄壁の守りになる魅力があったのだろう、2号はたぶん違う。2号の魅力は何といってもお腹の中に違うサンダーバードを入れて運んでいたことにある。一つなのに二つを兼ね備えているようなものだ。サンダーバードシリーズを考えた人は偉いが、なんといっても2号の発想こそが天才だと言い切れる。多くの子供は2号見たさであのシリーズを見ていたのではないだろうか。そういえば今私が乗っている車はグリーンのビスタアルデオだ。2号に似ていなくもない。一時期、折りたたみ自転車を積んで遠征地で機動性を発揮しようと考えていたこともある(残念ながら、折りたたみ自転車は入手したものの箱から姿を現すこともなく今なお押入れにいる)。無意識のうちにサンダーバード2号を想定していたのかもしれない。で、なぜ2号がそんなに魅力的なのかということなのだが、よくわからない。見えないところに違う能力を保持しているところなのか、機体がせり上がって地面に残ったコンテナから3号とか4号が出てくるメカニカルなしかけが面白かったのか。おそらく、見かけはぼよんとしているのだが、現地に到着すると持ってきた装備で課題を解決する、そういうプロセスが魅力的だったのではないか。単に移動するとかミサイルを撃ち込むとかではなく、複合的な作戦で効果的に要所に攻め入る、その作戦の母体であり要である、一騎当千の戦士ではなく、戦略家を連想させる存在なのだ。そしてあのでかい図体の安心感、存在感、子供を生むようなギミック、そういうものが母を連想させていたのかもしれない。今日、サンダーバード実写版を見て、あの番組はアメリカ軍や金持ち層を正当化するプロパガンダであることを再確認したのだが、同時に母性の安心感のようなものを提供していたのかもしれないと思った

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